この記事は、おばあちゃんが亡くなったことへの思いを綴っています。
2015年7月8日(水)朝7時過ぎのこと、おばあちゃんが87歳でこの世から息を引き取りました。
現在30歳、近しい親族を亡くすのはこれが初めてのことです。私の祖父母は4人とも健在でしたが、亡くなったおばあちゃんは父方の祖母で2~3年前から体調を崩し始めました。入院したのは、今から約半年前2014年12月のこと。突然転ぶようになり、一人で歩けなくなり、あっという間に寝たきり。遡ることさらに半年、2014年夏ころから認知症のような症状が見え、空想や、幻影などを見て、言動が少しづつ通常と異なっていきました。難病パーキンソン病と診断されました。
私は、結婚して実家に暮らしていないため、そんなおばあちゃんの体調の変化をほとんど知りません。両親から話で聞くだけでした。実家は、父方の祖父母と2世帯同居でしたので実家に寄った際には、もちろんおばあちゃんに会いましたが、ほんの短い時間、『来たよ』と挨拶をした程度です。
そして、すぐに『また来るね・・・』と去っていく私。本当はもっと話がしたかった。でも、できなかった。しなかった、ただそれだけです。できなかったなんて、言い訳です。おばあちゃんとの時間は作ろうと思えばできました。
大の大人が、30歳にもなって恥ずかしいお話をします。
こんな後悔をしていることを知ってください。
そして、1人でも同じような思いをする人が少ないと、嬉しいです。
母は、祖母のことを嫌っていました。私が幼いころから。記憶のある幼稚園の頃から、毎日のように母は祖母の悪口を言っていたのを覚えています。私が結婚をして家をでる25年間、ずっと祖母を『大嫌い』『早く死んじゃえばいいのに』『めんどくさい』と愚痴っていました。
同居しているので、母が出かける時・家族で出かける時、『おばあちゃんには、どこに行くっていわなくていいから、黙ってて』と言われるのは、日常茶飯事、おばあちゃんから母が出かけている場所や、帰りの時間を聞かれても『わからない』と答えるしかありませんでした。
万が一、本当のことをおばあちゃんに話すと、母が帰ってきたのちに『何でおばあちゃんに、しゃべったの!?言わないでっていったでしょ!』と怒られ、母の機嫌が悪くなるのです。
母は喜怒哀楽が激しい人です。笑っている時はあんなに優しいのに、ちょっとでも気に触ることがあると、顔色を変えて感情的に起こります。そして、しばらくの間機嫌を悪くして、態度で家族に示すのです。私は、こんなに機嫌が悪いのだ、ということを。だから、おばあちゃんに、本当のことを話す。ということができませんでした。おばあちゃんとまともに会話をすることは、イケナイことだと思ってしまったのです。
いつしか、幼心に”おばあちゃんは、母をいじめている”と思うようになりました。おばあちゃんにも『お母さんをいじめないで!!!』と言った記憶がうっすら残っています。
私も少しづつ成長し、大学生になった頃から、やっと母が間違っているのではないかと思い始めました。嫁ー姑の関係です、うまく行かないことばかりでしょう。でも、なぜ、そんなにもおばあちゃんを嫌うのか。なぜ、孫のわたしにそんなに愚痴を聞かせるのか。思っていても心にしまっていてくれればいいのに。。。
母にとっては血のつながりのない、義母かもしれませんが、わたしにとっては、父の実母、大切な存在なはずだった。父を大事と思うなら、祖母も大事なのです。母は、そんなことには気づきもしませんでした。祖母についてだけでなく、父についても文句を毎日のように言い、私たちに愚痴っていたのですから。
おばあちゃんと、話す時間が欲しい。過ごす時間が欲しい。そう思い始めました。でも、実家には当然母がおり、幼心の記憶が残り、祖母と何の壁もなく接することがなかなかできません。
正直、接し方がわからないのです。大学生にもなって、母の機嫌が悪くなるのがとにかく嫌でした。母と対立するのも、面倒でした。母は他人の考えを認めることをしないため、幾度となく喧嘩をしましたが、母が折れたことは一度としてありませんでした。おばあちゃんが何かくれる時だけ、『もらってきなさい』とか、『ありがとう』って言っておいでとか、母に言われおばあちゃんと話す、そんな他人行儀な日々だったと思います。
大学を卒業して、3年後に結婚をし実家をでました。実家に行けば祖母に会えますが、大抵実家に行く時には母がおります。今までと何も変わりません。母が祖母に優しい言葉をかけている時も、その裏でわたしに祖母の悪口を言ったりするのです。わたしが実家に帰るタイミングを、祖母に聞かれても、母は教えていなかったようです。
なぜなんだろう。。。なんでそんなに不親切なんだろう。母は、自分と祖母の関係だけでなく、孫と祖母の関係をなぜそんなに妨げるのだろうか。わたしの心は疑問でいっぱいでした。でも、それを乗り越える努力をしなかったのも私です。
そして、結婚して実家をでて、おばあちゃんに毎日のように会えて無くなって5年後、おばあちゃんは亡くなりました。おばあちゃんが入院して、話もままならなくなった時にお見舞いに行き、やせ細り変わり果てたおばあちゃんを見て『何もしてあげられなくて、ゴメン』それしか思いませんでした。父は一人息子なので、孫は私と私の姉の2人しかいません。後悔しかありませんでした。悔やみました。
大人になってまで、母の顔色を伺って、何もできない自分に嫌気がさしました。本当に、何もしてあげられなかった・・・。いつも、『もっと顔を見せて』と言っていたおばあちゃんに、『もう帰っちゃうの?』と言っていたおばあちゃんに背をそむけるように帰って行ってしまいました。一度でいいからおばあちゃんとゆっくり話したかった。
いくら後悔しても、もう死んでしまったおばあちゃんにしてあげられることはありません。この世に残された私たちに、できることは『供養をすること』『そして、自分が幸せになること』です。
お葬式の時、曹洞宗(そうとうしゅう)の住職からこんな言葉がありました。私は無信仰者なのですが、祖父・祖母は曹洞宗とのこと。
『仏教で、同事という言葉があります。同じ、事と書いて、同事。
字のままですね、同じように感じる事。
相手だったら、どう思うかを考えて行動するという御釈迦様の教えです。
残念ながら、故人はこの世では生きていく事ができません。
仏さまの願いはただ一つです『残された方が幸せに生きる事』
これに尽きます。
故人の立場になってみたら、故人がどう思うかわかりますよね。
相手がどう思うか慮って行動すること。これができたらとても素敵な世の中です。
今の世の中、自分が自分がとなりがちですが、自分の考えを押し付けるのとは違います。
相手だったらどうしてほしいか、と考えるのです。
今日、故人のご主人様が参列できて、本当に良かったと思いました。
これがまさに、同事です。故人がどうして欲しいと思うか。
最後に一目会わせたい、家族の思いですよね。
皆様が少しでも、仏の道の考えに近づけますよう 』
祖父は、祖母が入院した2014年12月から1ヶ月も経たないうちに寝たきりになってしまい、認知症が進んでしまいました。祖母が家にいなくなり、寂しかったのでしょう。いつもの日常生活が送れなくなりました。食事をとらなくなりました。おじいちゃんも、やせ細って、自分で動けなくなってしまったのです。祖父と、祖母、病室は違いますが、祖母が亡くなる前最後の1ヶ月は同じ病院に入院しておりました。
最後、おばあちゃんが病院で息を引き取った時、おじいちゃんを車椅子に乗せて会わせました。
おじいちゃんに『お母さん、死んじゃったよ』と言うと、おじいちゃんは『そうかぁ....さみしいなぁ....』と言ったそうです。
そんなおじいちゃんを最後に、おばあちゃんの顔を見せてあげたいと家族の願いで、介護の付き添いの方を頼み葬儀に参列することができました。もうこれでおばあちゃんの顔を見れるのは最後という、お花を棺に入れる時、『おばあちゃんの顔見えた?』と聞くと『見えた』としっかり答えたおじいちゃん。
おばあちゃん、今までありがとう。
私は、ずっと後悔していた。おばあちゃんとの時間を作れなかったこと。
ごめんね。
頑張って生きるよ。
幸せになるよ。子供みせられなくってごめんね。
あと、お父さんのこと、よろしくねっていつも言ってたね。
いつもお父さんのこと、気にかけてくれてありがとうって言ってたね。
大丈夫、私がついてるから、お父さんのこと任せて。
おばあちゃん、幸せだった?
私、お父さんのこと尊敬してる。
おばあちゃん、お父さんのこと産んでくれてありがとう。
そっちで待っててね。
また、会おうね。
そしたらいっぱいおしゃべりしようね。
私はいつ死んでもいいって思っていました。
でも、大切な人が悲しむなら、やっぱりしっかりと幸せに生きようかな、そんな風に思い直しました。
最後まで読んでくださった方、感謝申し上げます。
What is Live for ?
どうか、悔いのない生き方をなさってください。